釈尊の十大弟子の一人、シュリハンドクは、
自分の名前も覚えられぬ生来の馬鹿だった。
さすがの兄も愛想をつかし、家を追い出した。
門の外で泣いているシュリハンドクに、
「なぜ、そんなに悲しむのか?」
釈尊は、親切に聞くと、
正直に一切を告白し、
「どうして私は、こんなばかに生まれたのでしょうか?」
さめざめとハンドクは泣いた。
それを見て、
「悲しむ必要はない。お前は自分の愚かさを知っている。
世の中には賢いと思っている愚か者が多い。
愚かさを知ることは、最もさとりに近いのだ」
釈尊はそう言って、一本のほうきと、
『ちりを払わん、あかを除かん』の言葉を授けられた。
シュリハンドクは清掃しながら、与えられた聖語を
必死に覚えようとした。
『ちりを払わん』を覚えると『あかを除かん』を忘れ、
『あかを除かん』を覚えると『ちりを払わん』を
忘れる。
しかし彼はそれを二十年続けた。その間、一度だけ、
釈尊から褒められた事があった。
「お前は、何年掃除しても上達しないが、
上達しないことに腐らず、よく同じ事を続ける。
上達することも大切だが、根気よく同じ事を続けることは、
もっと大事だ。
これは他の弟子に見られぬ殊勝なことだ」
釈尊は彼の、ひたむきな精進を評価したのである。
やがて彼は、ちりやほこりは、あると思っている所にばかりにあるのではなく、
こんなところにあるものか、
と思っている所に、
意外にあるものだということを知った。
そして、
「おれは愚かだと思っていたが、俺の気つかないところに、
どれだけおれの愚かな所があるか、分かったものではない」
と驚いた。
ついに彼に、阿羅漢のさとりが開けたのである。
よき師、よき法にあい、よく長期の努力精進に耐えた結果に
他ならない。
社長は最近私に無言の教えを下さいます。
今回の話もそうだ。
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